魚の飛ぶ夜

切なくて美しい恋愛話をお届けします

どんどんあなたに惹かれてく。

夕方の教室、黄金の光に包まれてあなたは眠っていた。

長い睫毛がなめらかな肌の上にくっきりした影を落としていて、柔らかな産毛が金色に光って見えた。

少し微笑みながら目を閉じるあなたの顔があまりにも綺麗で、幻想的だと思った。

見えない力に引きつけられるように、私の足があなたの机の方に歩んでいく。

どんな夢を見ているんだろう。

よく眠れているといいな。

そんなことを考えながら、私はあなたの柔らかい髪を指先ですくった。

目を覚まして、その綺麗な瞳が私の姿を捉えたら、あなたはきっとくしゃっと笑うのだろう。

それで、居眠りしてしまったことを、眉を下げながら弁解するんだろう。

それ以上怒れたことは私にはない。あなたと目が合うたびに胸がとくんと鳴るなんて、もしあなたが知ったらどんな顔をするんだろうか。

それを想像するだけで、また胸が締め付けられそうになる。

ああ、私…ダメだ。

 

***

 

 

 

私にとって、雨宮真志喜はいわゆる幼馴染だった。

小学生の時に引っ越してきた真志喜は、当時から綺麗な顔をしていて女の子に間違えられるほどだった。

そして例外なく、その女々しさからよく男子にいじめられていた。

私は怒っていた。

みんなはなんてバカなんだろう。真志喜は優しいし、たまにかっこいいし、字がすごく綺麗なのになんでみんなそれを見ようとしないんだろう。

私は表立って真志喜を守ることはしなかった。

そんなことをしたらプライドを傷つけるし、根本的な問題は何も解決しない。

それが分かるくらいには、小学生の頃から賢かった。

代わりに、引っ込み思案だった自分を破ってみんなとたくさん話すようになった。

そして優しさや知性の方がサッカーよりもかっこいい、という価値観を広げていった。

もちろんそんな難しい言葉遣いはできなかったけど。

だいたい、「好きなタイプ?優しくて紳士的な人に決まってるじゃん!」とか

「サッカーしかできないのに人のこと苛めるやつとかさ、ダサいよね」といった風に

友達と話していただけだ。

だけど元々容姿は良く、明るい性格になっていた私の意見はしばらくするとクラス大半の意見になっていた。

運動が得意な男子も一部、字をもうちょっと綺麗に書いたり、ドアを開けてくれたりするようになった。

それを自然にこなす真志喜は、クラスの注目を浴びるようになった。

 

真志喜はそのことを知らない。

高学年になって急にみんなが大人になったな、とでも思っていたのかもしれない。

だけどいつも一緒に下校したり遊んだりしていた私が真志喜のことを大切にしていたのは気が付いてくれてたみたいだ。

家族ぐるみで一緒にキャンプしに行ったり、プラネタリウムに行ったりお泊まり会をしたりした。

その度に、眩しい笑顔ではしゃぐ真志喜を見て私は嬉しかった。

今でもその時のことを思い出すと自分の転がるような笑い声が聞こえるようだ。

いつもいつも楽しかった。

 

ある時から、真志喜の背が伸び出して、声変わりした。

低い声で久しぶりに「菜月」と呼ばれたとき、私はコロンと堕ちてしまった。

その頃からずっと好きだ。

どうしようもなく恋している。

だけど真志喜が私に恋することは絶対にないだろう。

私は真志喜の好きな人を知っている。

そしてそのことを誰にも言わない約束をしている。

 

**

 

それは中学二年生のときだった。

久しぶりにお泊まり会しようよ、と真志喜に言われた。

さすがにもう警戒する年になっていたし、それが意味してしまいそうなことも知っていた。

でも私は真志喜のことが大好きだったから、彼が絶対に私に手を出さないこともわかっていたし、一方でもしそんなことになっても別にいいと思っていた。

ドキドキしていた。

「ねえ、菜月。僕さ、菜月になら言える気がするんだよね」

「んー。どうしたの?」

真志喜の白くて細い首が少し紅く染まっていた。

体ごとこっちに向き直って、潤んだ瞳で囁かれた。

「僕、男の人に惹かれるんだ」

「そ…うなの?」

「航のことが好きなんだ」

「…」

 

理解するのに数秒かかってしまった。

真志喜の綺麗な瞳が揺れるのが、伏せられた睫毛越しに見えた。

 

「へぇ!予想外だけど、なんか似合うんじゃない?」

私は微笑んで真志喜の顔を覗き込んだ。

「照れてるの、かーわいい。」

意地悪な声でからかう。

実際、可愛いのだ。真志喜は、かっこいいと可愛いと美しいを全部持ち合わせた最強の人間だから。

「なんだよ急に!別に照れてないし」

と言いながらも、耳たぶが赤かった。

私は仰向けになって、震える心を落ち着かせようとしていた。

真志喜は、同性が好き。

私は、異性。

航は、確か…。

 

航は中学に上がってから仲良くなった友達だった。

真志喜とは真反対の、うるさくて目立って運動神経がいい奴だ。

でも実は優しくて、苗字があいうえお順に近い私たちはすぐに仲良くなった。

その日も休み時間に一緒にテスト勉強してたのに…。

 

航はとてもモテるのだ。

中学生とは思えない高身長で、運動神経抜群で、顔も整っているのだから当たり前だ。

本当にありえない頻度で告白されていた。

それを真志喜は遠くから見ていたというのだろうか?

航が女子を断る時の決まり文句、「好きな人がいるから」。

私も誰かは知らないけど、話からして女子なんだろう。

真志喜の恋は本当に不毛だ。

分かっているんだよ…ね?

 

そう。

分かっているに違いない。

だから苦しかったんだろう。

私に打ち明けてくれたことは、それだけは心から嬉しかった。

 

「菜月。」

 

右耳のすぐ横で、囁くような声が降ってきた。

優しくて甘い、大好きな声。

 

「受け入れてくれて、ありがとう」

 

眉毛を下げて笑っているあなたの姿が一瞬見えて、それから景色が滲んだ。

生暖かい涙が頰を伝い、私はそれを拭わなかった。

 

 

***

 

 

 

「うわっ!」

 

驚いた顔をして、真志喜がいきなり起き上がる。

少し紅潮した頰にはセーターの網目の跡が付いている。

「菜月…

待っててくれたのか?」

目を丸くする真志喜に、私はくすっと笑う。

「バーカ。寝不足なの?早く行くよ」

鞄を急いで持って追いかけてくる真志喜が愛おしい。

「あ、航は今日部活だっけ?」

降ってくる何気ない声も、私の脳には大事に保管される。

「うん、なんか特別に別校のコーチが来てるらしいよ」

「へぇ。残念だな」

 

「そう?どのみち1時間も寝てた人を待っててくれてないと思うけど?」

「確かに…。ごめん菜月」

「どういたしまして!」

「ありがとう」今度は真志喜が笑う。

 

苦しみを抑えて笑うのも、報われないと分かりながら尽くすのも、好きな人のためならなんだって耐えられるのだ。

そしてそれは決して不幸ではない。

これは私がたどり着いた哲学。

ちなみに、哲学は私の心の拠り所だ。

自分の抱えている辛い悩みやどうしようもない状況を、本質を考察しようとすることで落ち着いて考えることができる。

もしどうしようもなく悲しいことが怒ったら、哲学者になろうと決めているぐらい。

そんな大袈裟な、と言われるかもしれない。

でも例えば、真志喜が私の生活から消えたとき。

私の生きがいは、一体何になるのだろう?

何か見つかるといいな、と心の隅でそっと呟く。

 

「じゃあ、また明日!」

ピンクと藍色の混ざった不思議な色の空を背景に、私の大切な人は無邪気に手を振って遠ざかっていった。

 

 

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続く